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2006/11/25

そこまでするか

20061125
Leica MP + NOCTILUX-M 50mm f1.0 (2nd generation)

同居人が「女子カメラ」と一緒に買ってきた「CAFÉ PHOTO magazine」。表紙にはお酒のビンを抱えてグラスに口をつけている子供のモノクロ写真が載っています。

私は大人ぶってお酒を飲んでいるフリをしているお茶目な子供の写真として当たり前に受け入れていました。ところが、表2対抗のインデックスの部分にこのような文章が・・・

<以下本より抜粋>
写真のヤン少年が飲んでいるのはお酒ではなくお水です。この写真は彼に強制して撮影したものではなく、たまたま撮ったスナップ写真です。写真上のボトルは彼のマイボトルとのことです。彼はまた職業モデルではなく、一般の少年です。この写真の使用許可・幼児虐待ではないことを証明する法的に有効な「ヤン少年の保護者に当たるご両親のサイン入り(現地語=フランス語・裁判管轄地パリ)」モデルリリースは写真家Issaque Fujitaあてに発行されています。

いざというときのためにこういう記述が必要なご時勢というのもわかりますが・・・

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コメント

Shigさんへ。
こんにちは。何だかある意味でイヤな世の中になりました。今回の旅でShigさんのトルコを真似て人物を撮りたかったんだけど、いちいち撮影許可を貰うと構えて「ハイ、ポーズ!」になってしまうし、黙って撮ると盗み撮りしているみたいでこっちが具合悪い(笑)でも、実際にクレームをつける人が沢山いるんでしょうね。そんなこんなでお気に入りの人物写真は数枚しか撮れませんでした。

投稿: ブノワ。 | 2006/11/25 16:18

クレームをつける人間も、こうした予防線を張るほうも
「無粋」の一言につきます。はぁ。。。
おおらかにいこうよ。

投稿: taka | 2006/11/25 21:08

変な世の中になりました。何をするにも、逃げ道を作っておかなければいけないんですね。こういう記載を読むと、静かにイメージを楽しむ気持ちに水を差される様な思いです。写真だけは自由なイメージの楽しめる世界と思っていたけど、そうもいかないんですね。こうなると何事も純粋に楽しむという事が出来なくなりますね。いつも心の何処かで、変ないい方ですが、利害関係とか規制とかに縛られて生きていかなくてはいけないですね。

投稿: farfarsideK | 2006/11/26 08:14

ぼくもこの本買いましたから、表紙のコメントには違和感がありました。筋を通しているのでしょうけれど、スナップ写真を撮ることに無用の圧力を掛けられたようで、余計なことをしてくれたなという気がしないでもありません。

投稿: ありま秀丞 | 2006/11/26 13:53

>ブノワ。さん
トルコでも人物写真(真正面系)は「撮っていいですか?」とジェスチャーしてから撮っていました。それ以外は遠めからか、後ろ姿・・・・これって国内と同じなんですよね。ただ、日本より「撮らせて」といいやすかった分人物写真が多かったです。でも、これはトルコでの話し。ベルギーと時は声をかけにくく人物写真が少なかったです。やっぱりその辺りは文化に左右されそうです。

>takaさん
ある意味出版という手段をとる限り仕方ない部分もあるんでしょうね。でもできるだけ見たくないもんです。

>farfarsideKさん
結局こういった確認が必要になるほどそれを無視してきた輩がいるということなんでしょう。一般の感覚では信じられないことなんですけどね。

>ありま秀丞さん
海外では「子供」「お酒」「虐待」が絡むと特に厳しいようです。でも普段からまともな感覚の人間からするとこれを先回りして承諾文を突きつけられると感じなくていい不快感まで味わされてしまいます。

投稿: Shig | 2006/11/26 20:44

写真家の藤田一咲(本人)です。
えー、ぼくの写真に限らず、肖像写真に関するいろいろなご意見・ご感想があると思います。「そこまでするか」というお話へのお答えは、「広告カメラマンであるぼくは、そこまでします」というものです。というのはそこまでしないと写真を売る事ができないからです。広告カメラマン(ぼくは広告畑出身なので)とは、そういうものなのです。「余計なことをしてくれたな」というご意見もありましたが、そういう意味でそれはどうかなあと思います・・・。広告や商業用写真として撮っていることもありますが、できればこのような表示はしたくはないのですが、出版社側の規定などもあり、出さざるをえなかったのです。「この文を読んで水をさされた」というご感想もありましたが、このような文章を出さなければ現代では掲載されないという現実が一方にはあることも知っておいてもいいかもしれません。出版社にはこのような写真を載せる事への苦情、クレームが山のようにきているのです。そういうこともあって、日本のある有名写真雑誌では、スナップ系で人物がはっきり写っている写真は肖像権許諾書があっても掲載されないものがあります。特にコメントの返事にもかいていただきましたように、〈子ども・お酒〉がからむとひじょうに出版社などメディア側は神経質にならざるを得ないのです。(海外においてこの点での裁判は数多くあり、大きな声では言えませんが日本人写真家も裁判に負け、多額の賠償金を払わされている実例があります)。このような感想を受けないためにも、ぼくが掲載せざるをえなかったような文が写真に添えられていても違和感のない感覚をみなさんにももっていただきたいとも思います。自費出版の本ならいざしらず、多くの方々を巻き添えにする可能性のある現場で働くものの立場もお考えいただければ、と思います。また、このような形の文章を載せる事で多くの人が肖像権の問題を考えていただくきっかけになったらとも思いました。そして撮る側、発表する側だけの立場からではなく、撮られた側、発表される側からの観点もぜひ、ご考慮いただけたらと。いずれにしても、肖像写真、スナップ写真の発表がむずかしくなっていることは事実です。それを乗り越えたいい写真が1枚でも多く撮れ、発表できたらいいなあと、ぼくは思います。

投稿: ISSAQUE FOUJITA | 2009/08/14 01:50

>ISSAQUE FOUJITAさん
コメントありがとうございました。
ご高名な藤田さんご本人にコメントをいただくなんて恐縮してしまいます。

さて、今回の「少年の肖像写真と了承」に関してですがブログ内だけでなくアマチュア写真家の話題の中でも物議をかもしたのは事実です。ただ、その矛先は藤田さんに向けられたものではなく肖像権や表現に対する「事象」「現象」に向けられたものということはご理解いただければと思います。

今回の件は街角スナップでの肖像権の問題とは少し切り離して考えたいと思っています。これはこれでアマチュア写真家としても直面する問題ですし、どこかで境界線を引かなければならない課題として残ります。
今回総じて読者として引っかかったのは雑誌表現の中での注釈という点です。

■ 単独の写真ならともかく責任編集された表現のひとつとしての写真にまで注釈を
 入れなければ世の中は許してくれないのか?

■ 許してくれない(写真から何も感じ取ることができない)ほんの一部の人のために
 我々は今後注釈付で写真を見たり発表しなければならないのか(写真展含む)

■ 注釈表現はもうちょっと柔らかくならなかったのか
※「お気に入りのマイボトルで水を飲むヤン少年」では駄目?

プロの方、出版社の方の「現状ではこうせざるを得なかった」というご判断も十分理解できるのですが、「こういった注釈文章に違和感を持たないでください」というメッセージに対して素直に受け取れない釈然としないものを感じるのも事実なんです。

中には「ヤン少年が飲んでいるのはお水で、ご両親も了承済みの写真」ということがわかって「やっと安心してこの写真を楽しむことができる」という方もおられるでしょう。でもこの写真から「虐待」「無断」「幼児飲酒」を全く感じなかった者からすると「写真表現の限界」を突きつけられたような気がして寂しかったのです。

理想を声高に叫ぶのは簡単でしょう。でも現実は厳しいものだと思います。それでも写真表現そのものが許されないという最悪な状態まで至っていない今、少しでも理想の形に近づくのはまだ可能だと信じたいのです。

これは決してプロの方や出版社の方だけの問題ではなく簡単に世の中に対して広く情報を発信できるようになった我々アマチュアの立場でも同じでしょう。
「表現」と「その表現に対する責任とケア」はどういう形であれ必要だと思います。後はそれを有形無形でどう伝えてゆくか・・・・今一度考えさせられました。

今回は貴重なコメントありがとうございました。

投稿: Shig | 2009/08/14 10:41

くどいようですが、このような文章を入れなければ掲載はできないと出版社側にいわれた最低限の
ものをいれているのです。わたし個人がいれたかったり、その必要性を感じたからではありません。このような現状に追いやられたのは、今までの写真に対する一般の人々の反応によるもので、その矛先を写真家に向けるのはどうでしょうか?その出版の現場に目を向けていただきたいものです。

投稿: ISSAQUE FOUJITA | 2010/11/17 15:02

途中で送信してしまいました、失礼しました。
ご質問にお答えしておきます。

■ 単独の写真ならともかく責任編集された表現のひとつとしての写真にまで注釈を
 入れなければ世の中は許してくれないのか?
●世の中のことは、わかりません。この雑誌の出版社は、決して許してくれませんでした。ぼくには他の写真にすることもできたのですが、あえてこの注をいれても表紙にしたかった、ということです。

■ 許してくれない(写真から何も感じ取ることができない)ほんの一部の人のために
 我々は今後注釈付で写真を見たり発表しなければならないのか(写真展含む)
●上記の理由から、まったくその必要性も、その必要性について検討する必要もありません。
■ 注釈表現はもうちょっと柔らかくならなかったのか
※「お気に入りのマイボトルで水を飲むヤン少年」では駄目?
●一番最初の理由から、この出版物においては、ダメでした(許可がでませんでした)。

一般の人とプロはちがう立場にいます。ただ写真は、同じものです。同じような問題を常にはらんでいますね。ぼくも常に考えさせられています。

投稿: ISSAQUE FOUJITA | 2010/11/17 15:10

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