一生モノ手帳への彷徨 (その2)

techo001.jpg現在、僕の周りで日本人向きのザウルスやパームシリーズなどPDAを使用している率は5%に満たない(体感率)。ただし経験率ということでいうと僕も含めかなりいるのではないだろうか。
PDAというツールは万能手帳としての魅力満載である。メーカーは大真面目に作っているとは思うのだが、限られた現在の技術の中で工夫されたギミックには無理矢理感が漂い、基本的には大人のスパイ手帳であろう。僕も使用している期間はそれなりに楽しんだが、純粋に手帳に求める機能としては致命的な欠点「入力(インプット)」と「出力(アウトプット)」の自由度、スピード性という点でアナログ手帳との差は著しい。最近ではパソコンとの親和性も高いのでそのあたりは改善されているとは思うのだが、単独で使用した場合やはり「まだまだ感」は否めない。
当然のごとく新しもん好きというだけで手にしたザウルスは電池が切れた時点でお役御免。後には普通の手帳にデーターを移す作業だけが残った。

その後手帳探しは航海図のない船旅のように焦点が定まらないまま無為な時を費やすのであるがその大きな理由が理想の手帳と手帳を使用する実態とのギャップである。
当時はまだ業務自体が制作的要素中心でスケジュールが立て込むということはなく背伸びして本格的ビジネス手帳を使っても一日を時間で区切った日々のページが埋まることもなくほとんどのページが空白のまま時は流れてゆくのである。
空白だらけのデイリーページに「君は仕事をしているのかい?」と言われているよう
で無性に腹が立つ。そのため基本的なスケジュールはマンスリーブロックタイプを呼ば
れる月ごとのページに日を升目に切ったタイプで残りのページは基本的にフリーというタイプを中身の選択の基準にし、手帳として選ぶ基準はもっぱら「見た目のインパクト」に走ってしまっていた。
毎年赤や黄色の派手な色の変わった素材の手帳を買い求め、愛着もなく一年でボロボ
ロにする所業が続いていたのである。
要はメモ程度のスケジュール管理が可能なら当時の僕には手帳というアイテムはさほど重要なものではなかったのである。手帳というアイテムに魅力を感じ、機能をフル活用でき、かつ魅力的な装丁の手帳を使いこなしたい欲求はあるのだけれど、肝心のインプット素材の絶対量がついてこないのである。
この時の手帳に対する思いはとても一生ものといったアイテムカテゴリーではなく限りなく消耗品に近かった。中身も装丁も一年で風化してしまうもの・・・。PDAのようにはかないデーターとしてほどの虚無感はなかったものの持つ喜びなどは一度も味わったことはなかった。

techo003.jpgそうこうしている間に会社での仕事の内容も徐々に変化してゆき、個人制作業務的なものから複数のミッションをディレクションする業務となり、他部署や外部とのミーティングも飛躍的に多くなってきた。それに伴いスケジュールは分単位で構築され、もはや升目中心のコンパクトな手帳では管理できなくなってきた。業務の変化により手帳に対する要求が大きく変わってきたのである。つまりこの期に及んで手帳に対する概念を再構築する必然性に迫られたのである。
これまでは手帳の本質と実態とのギャップに「欲しい手帳がない」とか「もっとましな手帳はないのか」とないものねだりをしていたのだが、やっとビジネスの実態が本来のビジネス手帳の本質であるビジネスサポートを最優先とした手帳への欲求、というか切実なる必然とシンクロしてきたのである。

やっぱモノ探しはこうでなくてはね・・・。ということでなんとなくではなく本当の手帳探しが社会人になって10年以上たってはじめて訪れたのである。

<手帳本体の機能>
■主目的は日々のスケジュール管理。見開きで一週間
■日々のスケジュールも時間で管理できる仕様
■安定した商品供給(継続性も必須)
■それ以外の用途としてアイデア帳としての機能があれば考慮
これらの機能を満たす手帳探しは実はさほど難しくなく、ビジネス手帳としてそういった必然からの視点で装丁はともかく手帳をしてマッチングしたのがクオバデスビジネスプレステージである。実はこの手帳を検討したのはその時が始めてでは以前手帳探しにやっきになっていた時にも候補ではあったのだが、デイリースケジュールページ構成と実際のビジネス内容がマッチしていなかったのでスルーしたのである。しかしながら現在の仕事にはこれに勝るレイアウトはない。幸い本来フランス製であるこの商品も日本向けにアレンジされたバージョンもありまさにパーフェクト。(この時点ではまだ使用経験はなく若干の不安もあったが、杞憂であった)

<手帳の装丁への希望>
■毎日使用するものなので飽きのこないデザイン、素材
■ビジネスユースとはいえ遊び心のある要素が欲しい
■さりげなく所有欲を満たしてくれるものであって欲しい
■ペンホルダーは必須
と、まあやっぱり難しい問題は残るものである。手帳本体は業務の変化によって欲求のピントが明確になったのでモノ探しも納得いくものだったのだが、こういう「なんとなくこんな感じのモノが欲しい」とか「俺の所有欲を満たしてくれ」といった感覚的な欲求に対しベストなモノにめぐり合うのはかなり偶然の力を必要とするのである。
前途多難と思っていた矢先と探しているその時に、理想の手帳カバーに出会ってしまうのである。こんなのアリ?
まあ、運命とか偶然とかなんてものは後で考えるとそう大げさなものではなく 単なる結果論であると思っているのであるが、あまりにタイミングがよすぎると非運命論者 である僕もなにか不思議な感覚を感じてしまう。モノとの出会いは運命的なロマンを 感じた方が楽しいのであろうとも思う。まあ、自分の都合のよい解釈をしておこう。

techo002.jpg本当に偶然、雑誌Biginをめくっていてある手帳の記事に目がとまった。 手帳自体は黒革のシンプルな手帳ではあるが、ひっかかったのは記事の中の 素材紹介の部分。「この手帳はこだわりのコードバンで作っており・・・・」 「コードバン?あのコードバン?」いままでコードバンといえば憧れオールデンの靴 であるとかせいぜいベルトでの素材としてしかイメージがなかったし当時は今ほど コードバン素材は一般的ではなかった(今でもあまりメジャーではないが) コードバンは馬のお尻の部分の皮でとにかく丈夫で硬い。がしかし決して無骨な革 ではなくしっとりと上品な光沢を持っている。その硬さゆえに靴においてもベルトは 時計ベルトに関しても非常に好き嫌いが分かれるところであるし非常に高価でもある。
が、しかし手帳としては理想ではないか。ましては僕にとって一度は試してみたかった コードバンと今必要としている手帳とが見事に結びついたのである。
またこの手帳を販売しているPT.ALFREDというお店は手帳屋ではなく洋服屋であるため、ファッション的な遊びもある。嬉しいことにデフォルトでクォバディスのビジネス プレステージとロディアがセットである。確かセットで3万なにがしだったかと思うが早速 購入。

techo004.jpg気がついてみれば、今ではもう4年目である。クォバディスビジネスプレステージを毎年買い替えロディアは書ききると交換している。毎年迷っていた手帳選びの感覚もすでに薄れ、当たり前のようにデスクの決まった位置に収まっている。
手帳というアイテムに関していえば僕はもう双六を上がってしまったのである。この先何年ビジネスマンを続けるかわからないが、新しい手帳を買うことはもはやないと思われる。コードバンという素材の頑丈さは4年も酷使してもびくともしないし年々細かい傷が風格に変わってきている。僕の持っているモノでこのようにあるジャンルで双六を上がってしまったアイテムは他にもある。これは理想のモノに出会った喜びとともに、「もはやこのジャンルでモノを探し続ける楽しみ」を失ってしまった悲しみもともに味わってしまうのである。手帳のように複数を所有することにあまり意味を持たないアイテムはなおさらである。しかし一生持ち続けても納得がゆくモノに出会える喜びはモノ好きにとって最上の喜びであることにはかわりはない。

ただ、理想の手帳に関して言えばコードバンだからとかクォバディスだから理想であるというだけではない側面もある。コードバンやクォバディスの手帳を持ってそれを使っている実感のある業務をここ4年間してきている。この手帳を存分に活躍させることのできる仕事が今ここにある。重要なのはこのポイントではなかろうか。素性のよい気に入ったアイテムはそれを十分に活用できる環境において完成するのである。一時期手帳選びで彷徨していたころはその環境になかったために迷走を続けたのであろう。
この先この手帳を活躍させ続ける仕事ができるかどうかはわからないが、スケジュール管理が緩やかな部署にまわされたとしたら僕はこの手帳を引退させるつもりである。そしてなんの思い入れもない支給手帳でも使い最低限の業務をこなすであろう。真の意味での手帳選びの彷徨はすでに終わってしまっているのだから。

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一生モノ手帳への彷徨 (その1)

僕は大学時代、周りの友人から「会社勤めを始めても多分長続きしないだろう」とよく言われた。周りからみると随分社会不適応者に見えたのだろうか。だが、周りの期待に反して卒業して約20年、世の中の大きな流れの中、転職することが当たり前のこの時代に最初に就職した会社に居続けている。(よっぽど相性が良かったとか?)

勤めを始めたその時代はワープロすらフロアにひとつという頃で、端末を使うケースといえばせいぜい伝票処理くらいなものだった。
今や会社で一人に一台の端末は当たり前、ノートパソコンでも家や外出先からの会社レベルの業務をこなせてしまう・・・・。先日会社のメールシステムがトラブルで一時間くらいストップしたら、どのように仕事してよいか戸惑ってしまう社員が続出。少し前までメールなんてツールはなかったのに、今ではメールがなかったら業務が進まない。ましてや社内LANシステムがトラブろうものなら「本日は会社の端末が使用できませんので業務遂行不可ということで半休にしますので退社してください。」と会社閉鎖されても不思議ではないくらい会社の機能は停止する。

仕事ツールは大きく変化したけれど、この20年結果的にあまり変化しないものもある。それがパソコンに次ぐ大事な仕事アイテム「手帳」である。
ビジネスにおける手帳の役割のほとんどがスケジュール管理である。ということはスケジュールを書き留めておく事項がどのくらいあるかによって手帳の役割も変化するし、スケジュールの性質によっても使い方が変わってくる。さらにそこには「嗜好」というポイントも付加される。使い勝手がよいということで会社から支給される手帳を毎年使っている人もいるのだが、実利的にはよくても僕には「ちょっと物足りないなあ」と感じてしまうのだ。ビジネスにおいて使用頻度の高いアイテムにどのくらい個人の「嗜好」を取り入れることができるのか、TPOに外れずにむしろビジネスにプラスになるような取り入れ方はないのか。オフの嗜好物とは違った楽しみがビジネスアイテムにはあるのである。
手帳に関するポイントは以下の通り

■絶対条件として使いやすいこと
ビジネスアイテムはまず実利である。デザインやブランドが気に入っていても使い勝手がよくなかったら本末転倒である。

■基本的に毎日使うものである
要は飽きのくるものでは駄目ということである。あまりにトレンドに追従したものやその時の気分で購入したものは往々にして飽きる。まあ、買い換える快感が楽しいものもあるが、ここはひとつビジネスとしての安定感は欲しいところ。

■ベーシックな中での個性
なかなか個性の発揮できないビジネスアイテム群ではあるが、是非とも自分らしさ、こだわりなどを出したいところである。TPOをわきまえた遊び心がどこまで発揮できるか・・・。

手帳というアイテムは小学生の頃憧れた「探偵手帳」以来、男子たるもの軽んじかるべからずということで入社してからも毎年理想の手帳を求めて彷徨ってきたように思う。
まずは80年当時、一世を風靡した「リファイルシステム手帳」に手を出した。今でも使用している人の多いこのシステム手帳は結局約6年に渡って使用したのだが、中身も表紙も毎年のように変えてきた。理由としては

○毎日使うものなのでとにかく表紙が痛む
○惚れ込むデザインに出会えず飽きる
○リファイルシステム自体に若干の使いにくさ
  ・左のページが書きにくい
  ・ファイリングする金具が重い、邪魔
  ・気に入ったファイルが見つからない
というものであった。そしてとうとう禁断のPDA初代ザウルスに手を出すのである。
                        (やっぱり今回も続く)

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運命の出会い ~サウスウエスト~(その2)

(前回の続き)
モノに対して真の意味で虜になる時とはいかなる時であろうか。多分それは理詰めのものではなく人の中の「獣」の部分がそれを欲する時ではないだろうか。

「今日はえらくシンプルなキューですが、どこのキューですか?」
「ふふふん。とりあえず突いてみるかい?」
手に取ったキューはハウスキューでさえ施されているハギと呼ばれるギザギザの
装飾もなく、本当に木の棒という感じのシンプルなものだった。
今までの芸術品のようなキューとは違い、拍子抜けするほど当たり前に存在する
そのキューは持った瞬間、僕に表現できない「何か」を感じさせていた。
すっと構えて簡単な球を軽く突いた。

キューの良し悪しを語る上で、見越しというひねりによるズレの度合い、押し引きのキレ、パワー、振りやすさなど、多少の味付けの差はあるものの高価なキューはそれなりにレベルが高く、さらに装飾の度合いによってその価格は天井知らずになる。しかしこれらの要素も所詮スペックであり、「獣」が感じる要素にはなりえない。
今までモノを買う場合、基本的になにかしらのスペックなるものを拠り所にしてきた。この意味では「ブランド」や「デザイン」もスペックに入る。
このキューを突いた時、僕の中ではそのキューから受ける「感覚」のみがそのキューの価値となった。
球突きのルールに基づきラシャの上の球をコーナーに入れるためにここにある筈のそのキューは、球に向かって木の棒を当てるという単純な行為だけで五感を痺れさせるのである。
僕の中の「獣」が欲したのはキューではなく感覚なのである。またそれがシンプルな木を素材に職人が作ったものであるが故によりダイレクトに訴えかけるのである。こんな状況に陥ったのは初めてだったのでその時のことは具体的にあまり覚えていない。
そこにはひたすらこのキューを譲ってくれるよう懇願する自分がいたのである。
超高級なキューをコレクションしているにも関わらず、その老紳士はこのシンプルなキューを譲るわけにはいかないと固辞した。やっと老紳士から聞き出せたのはそのキューは「サウスウエスト」という名で、まだ日本には正式に輸入されていなく、シンプルなキューであるにも関わらず最低1500ドルするということだけであった。
その後その老紳士に会うことはなかった・・・。


今日において「サウスウエスト」というブランドのキューは銘キューとして今でも多大な人気を誇っており、中級クラス以上の選手でこのキューを持っている人も少なからずいる。
インターネットという言葉さえなかった80年代半ば、このキューに関する情報を手に入れるのは非常に困難であった。かろうじて来日していたアメリカのビリヤードプロにお願いしてやっと手に入れることができたのはそれから一年後のことである。
当時ではまだ日本でそのキューを持っている人はほとんどいず、よいキューらしいという噂が流れ出した頃でもあったため、日本のプロから「是非譲ってくれ」と打診されたこともある。

やっと手に入れた時支払った金額は当時の給料の約一月分であったが「安い」と思った。結果的に世間(ビリヤード界で)で認められる銘キューであったわけだが、最初に突いた時にはそのようなスペックは関係なかった。先見の明があったとも思っていない。出合ったのは偶然である。その時の状況はスペック的にまっさらであったにも関わらず虜になり、苦労して手に入れて、今でも現役として活躍し、死ぬまで愛用するであろう。
モノとの出会いは様々であるが、僕にとってこんなに純粋な出会いはあまり経験がない。ミーハーでスペック重視の僕であるが、この「サウスウエスト」との出会いはいろんなモノとの出会いの中で大きなターニングポイントであったのも確かである。
(後日談)
その後2本の「サウスウエスト」を購入することになるが、その話はまたいずれ・・・。

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運命の出会い ~サウスウエスト~(その1)

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高価なものを購入するにあたり人は何かしら拠り所にするものがある筈である。ただ、それが全く趣味のものであった場合自分にとってこの出費が正当なものであるか しばしば自分の持っている「拠り所の基準」が信じられなくなってしまう場合がある。

「今、これを欲しているのは魂から欲しているのか」
「一時の熱にうなされているだけではないのか」
「相手(mono)の甘言(上手いコピーや宣伝)に騙されているのではないか」
「この先これを買って後悔することはないか。もっといいものがあるのではないか」

お気づきのとおり高価なものを購入することは恋愛のそれと酷似している。
要は自分の気持ちというものは突き詰めると実は意外とわからないものである。その中であるときは成功し、あるときは失敗し学んでゆくのである。ただ、大きな失敗はだんだんと避けられるようになっても、恋愛と同じく「達人」というものには誰もなることはできない。
そのような迷いの連続であろう高価モノとの出会いの中でごくたまに全く迷いのない領域に達することがある。俗にいう「値段なんか関係ねえ状態」である(言いませんか?)
前置きが長くなってしまったが、僕の中でそのような状態を明確に意識したのが、今回のプールキュー「サウスウェスト」である。今から約20年ほど前、ちょうど「ハスラー2」の公開で巷では第二次ビリヤードブームの頃、すでにビリヤードにはまっていた僕はそれなりのマイキューである「ショーン」というブランドのキューを使用していた(当時約9万円)。ショーンにまったく不満はなかったのだがある日運命的な出会いが起こるのである。
行き着けのビリヤード場にはキューマニアと思われる老紳士が時々やって来ていた。その老紳士はお金持ちらしく当時でも高値の花であった「バラブシュカ」やら「タッド」やら「リチャードブラック」やらを次々と来る度に持ってきて見せびらかすのである。(当時の価格でも50万~500万)これを若い奴がやるといけ好かないのであるが、品のいい紳士であるそのおじいさんがやると、嫌味がなく我々もいつも触らせてもらったり、突かせてもらったりと楽しみにしていたものである。
その日も会社を早々に出、いつものビリヤード場でひとりで練習していると、例の老紳士がいつも持ってくるような装飾のされた派手な高級キューではなくハウスキュー(お店に置いてあるキュー)と見間違う程シンプルなキューを持ってきたのである。(続く)

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HI-TECの本質は一本の線

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今回はうってかわって身近なモノから。会社のマーケティング戦略研修で、あるボールペン会社の多角化経営がテーマになった時、講師の先生に「この 会社が売っているの本質は何だ」という質問に我々受講者は「コストの安い ボールペンです」とか「ニッチなターゲットを狙った商品です」とか凡庸な回答 をしていたわけだが、それを受けて講師の先生曰く、

「マーケティングという概念では商品を外面 だけで捕らえてはいけない。 もっと本質を見よ。ユーザーが欲し、メーカーが提供しているのは一本の線で ある。ボールペンはその線を提供する手段にしか過ぎない。ユーザーが欲して いるのはどのような線で、どのような時に使いやすく、その線にいくら対価が払える かである。」と。
(上手く伝わりきれてない場合はすみません)

我々はついいろんな用語やテンプレートに惑わされ、物事を考える本質から ついずれてしまうものだと、この話を聞いたときに痛感したものです。
で、こと筆記用具にそのまま自分の現状に置き換えた時マイフェバレットとして紹介 するのがこのHI-TEC(定価210円)。最近では書類はパソコンで作成することが多く 正式な書類を手で書くことはほとんどないため、筆記用具の主戦場はメモである。 プリントされたドキュメントに対しての訂正、追加、企画書のラフラフの殴り書き。
後は手帳へのスケジュール記入などである。私の場合ものを書くという行為はこのように かなり狭い範囲で存在する。少し細めでありながら安定した書き ごこち、缶コーヒーをこぼさない限りにじんだりこすれたりしない定着性。たしかに 外観は安っぽいけど、本質である私の欲する「線」の要素がぎっしりHI-TECには詰まっている。
また、個人的な思い入れとして、学生時代恥ずかしながら同人誌なるものを制作していた時期があるのだが、(SF小説系)当時はパソコン、ワープロなどはなく、版下に直接ロットリングで原稿を書き込んでいた。ロットリングは非常にナーバスな道具なので日常生活での書き物には向いていないのであるが、このHI-TECはロットリングペンでの書き味をかなり再現しているのである(値段は10分の1以下)。
幸いロングセラー商品なのかどこに行っても置いてあるので、さほどまとめ買いをしていないの だが、買うときはだいたい黒、赤それぞれ10本は買っている。それでも数ヶ月しかもたない。すわ生産中止ともなれば、全財産(の一部)をはたいてでも 一生分のHI-TECを買いまくるだろうなあ。
注)ちなみに0.5mmタイプ以下はインクがつまり気味だったり、紙にひっかかたりするので僕が使っているのは0.5mmタイプのみ。また黒、赤以外の色も非常にインクがつまりやすいので 全く別物として認識している。

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GR1vとミーハーと (その3)

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と、言うわけで(前回の続き)GR1vの情報が単にスペック的な客観情報のみだったと仮定すると、どうもこいつを購入した可能性は低いと言わざるを得ない。ムック等が出ていないとライカレンズとして作られたことも知らないであろう。写りがとてもよいらしいという噂だけであの値段での購入はきつい。

ミーハー動機で買うことを人はあまり公言しない。ミーハーがあまりみっともよいものでないことを知っているからである。しかし動機はどうであれ、本当によいものを手に入れられればに自己完結でモノを買うよりよっぽど高揚感もあり精神的にもポイントが高いのは前述した通りである。決して恥ずることではない。が、しかし人はこのミーハー動機を隠蔽するために様々な「言い訳」を用意するのである。GR1vはそのあたり非常に言い訳のしやすいカメラなのであるが、実は言い訳が多いというのが曲者で、
1)言い訳要素が多い
    ↓
2)モノそのものの素養がある
    ↓
3)一部マニアで評価が上がる
    ↓
4)素養そのものを理解しきっていない素人が便乗する
    ↓
5)マスメディアが軽々しく便乗する
    ↓
6)ブーム、トレンドになる
    ↓
7)理由の如何に関わらずこの時点で購入した場合「ミーハー」
 の烙印を押される危険がある。

私はすでに7)のポイントで購入したので、「ミーハー」と呼ばれても仕方がないのである。2,3、のあたりで購入した人から「今頃買ってやがら」を言われてもグゥの音も出ないのである。で、今どうなのか。いやあミーハーで良かったと本当に思う。迷った時に背中を押してくれたのが僕の中の「ミーハー魂」であり、そのおかげでGR1vをかろうじて手に入れられたのであるから・・・。あの時変なプライドで保留していたらもう手に入らなかったかもしれない。そう考えるとぞっとしますな。
ブームになるのは全てが上記のフローとは限らない。1、2、のモノの素養がないにも関わらず有名人が使っているからという理由でブーム、トレンドになった場合ミーハー魂に短絡的に火がついたら悲惨である。一時の甘い蜜で多額な出費と後々の自己嫌悪を招くのは必至であろう。
いくらミーハーな衣をまとっていてもそれを気にして躊躇する必要はない。どんなモノでも本質の部分で何故このモノに魅せられ、欲しているのか。そこの判断さえ狂わなければ全くもって問題ないのである。

とりあえずGR1vでの結論。購入動機はミーハーであれ、本当によいモノを手に出来た事に感謝。カラーリバーサル用(ブラック機)、トライX用(シルバー機)ともに末永く使ってゆくぞっ、おー。

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GR1vとミーハーと (その2)

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もともとミーハーの語源は英語の『Me First』が日本語風に訛った『ミーファースト』 という説もありますが実際は「みーちゃん、はーちゃん」から来ており、まあ、軽薄 に周りの流行に乗せられてなんでも手を出すといったあまりいい意味ではないんです よね。
要は自分の価値観や判断に基づくものではなく主に周りの影響によって物事 を判断してしまう思考であり、外的要因がない場合はミーハー思考はなりたたないわけ です。つまりモノサシとして客観的事実以外の情報がなくてもはたして自分はこのモノ を選んだか否か。ここが自分の購入動機がミーハーであったかどうかの基準になるかと。
で、ここでミーハーカミングアウトしたGR1vに関して客観的事実のみで果たしてあの コンパクトカメラにしてはバカ高い出費をしたか、ましてや色違いで2台も買ったか。 とりあえず購入に至った要素を以下にまとめてみた。

【客観的要素】
1)デジタルコンパクトカメラに辟易していた僕は銀塩のコンパクトを探していた。
2)妻がT3を持っていたため同じものを買う気にはならなかった。
3)基本的にコンパクトでもリバーサルを使用したい。(露出補正は欲しい)
4)一眼レフのサブ機として使いたいのでレンズにもこだわりたい。

この段階でもはや機種は相当絞られてしまうのである。 (GR1v or TC-1)

さて、この時点でGR1vに関する悩ましい要素(ミーハー的要素)がなかった場合僕はどうして いただろう。

【ミーハー的要素】
1)ライカにレンズ単体で受け入れられるレンズ伝説
2)森山大道氏を筆頭とするプロユース
3)銀塩撤退によるレア度アップ
4)有名なT3に対抗してのマニア受け度の高さ(俺は知ってるけんね度)
5)特集組まれ度(バックナンバーがまだ手に入る)

すでに店頭から姿を消しそうになっていたし、ヤフオクでは段々ときな臭い値段になってきていた。この時、決め手になったのはやはり「おライカ様」の後光であったことは認めざるを得ないであろう。銀塩でスナップをしながらなんとなく避けてきた「おライカ様」。
当時、かなりの偏見から妙に「おライカ様」に敵愾心を持っていたこともあり「よっしゃ。このレンズでライカ以上の写真撮ったる」とアンチなんとかは実はファンであったというのと同じような心境で「ライカ買うより断然安い」といつもの論理を展開するのである。(※「○○より安い」「○○したつもりで買う」「一生モノだし」は僕の最終兵器である。)
(さらにつづく)

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GR1vとミーハーと (その1)

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大体モノを買ったことに薀蓄を語るほどその実、物欲の本質はミーハーなものだったりするのはよくあることである。
物欲王の僕もモノを買う動機としてかなり明確に「ミーハー路線」と「唯我独尊路線」に区別することができる。
このGR1vに関してはいままで周囲の人々にはカメラそのものの素養のよさばかり購入の理由と語ってきたが、ここに告白しよう「ミーハーであった」と。
このカメラにおいて明るく発色のよいレンズはすでに語り尽くされているもののあるいくつかなミーハー的要素によって根強いファンがいることも事実であろう。
■レンズ単体でLマウントレンズになりライカ使いからも認められている。
■GR1v関係のムックも多く買ったあとも情報として楽しむことができる。
■有名プロがサブ機として使用しているだけでなく森山大道氏がメイン機として使用している。
■リコーが銀塩から撤退してしまい市場にレア感を感じさせた。(もうほとんどないみたいだけど)

と、まあ本来の素養のよさに加えなんとミーハー心をくすぐる要素のあることよ。幸いにもキムタクがドラマで使用しなかった分値段の高騰はなかったのが救いか・・・。

ともあれ購入モチベーションがミーハーなものであっても、使い出してふと気がつくと、もはやライカがどうだの大道氏が使ってるだの売ってないだの意識することなく買った当初の浮かれた高揚感も落ち着き、毎日鞄の中で行動を供にする相棒になってたりするんだが。結果的にいいモノを手に入れたことに加えてミーハーな高揚感まで味わえるのなら「ミーハー路線」もまんざら捨てたもんでもないんじゃなかろか。
(つづく)

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